2冊の本

手元に父の蔵書の中の二冊の本がある。一冊は太平洋戦争が起こる前のライプチヒで出版された写真集だ。(印刷されているドイツ語は皆花文字でドイツ語を知らないわたしには出版地と出版年を読み取るくらいしか出来ない。)当時の有名バレーダンサーの写真集だ。ティーンエイジャーの頃父はこの写真集をめくってはカルサビーナ、ニジンスキー、アンナ パブロワなどについて語ってくれたものだ。
もう一冊もライプチヒで出版されたものでこれはベルギー、ゲントの大聖堂にあるファン アイクの祭壇画の画集。1939/40年に出版されたものだ。ファン アイクのこの画集を父は得意そうにそして惜しそうに来客に見せていたものだ。祭壇画のうちでわたしが一番好きなのは受胎告知そして聖歌を歌う合唱隊の絵だ。この実物は戦時中ナチに没収されて戦後ベルギーに返還されるという運命を辿ったと読んだ覚えがある。後年、正確に言えば5年前K子の結婚式で行ったベルギーでゲントにあると知りながら観るチャンスがなかったことを今更残念に思う。
手に取ってみると本はしみだらけ、部分的には頁がはらはらと落ちそうな気配もある。これらの本も数奇な運命をたどって今わたしの手にあるのだ。終戦直後、疎開先にいた私たちの所に東京から父が帰って来た。いくらかのバター、チーズという貴重な食品とともに持ち帰ったのがこの二冊の洋書だった。「助かったのはこの二册だけだったよ」と言いながらリュックサックの中から取り出した。牛込の家が空襲された時父は側にあった大切な洋書を手当たり次第防空壕に放り込み逃げたのだ。近所の大学生と助け合いながら命からがら風上に逃げたと話していた。壕に放り込まれた外の沢山の洋書は流れ込んだ雨水で全滅だったという。
60年余を経て今わたしの手元にある本。これからどんな運命をたどるのだろう。